アマガミSS 第四話 レビュー (完)


第4話「レンアイ」(後) 目次

(通りには大雨が降り続いている。カメラ、通りからゆっくり建物に沿って移動する。窓からは光が漏れているが、中は見えない。カメラ、窓に向かってクローズ・アップしていく。)
(建物の中。イラン風の絨毯が敷かれ、調度を揃えられた上品な空間に大きなテーブルが置かれている。その端で折口信夫が椅子に座っており、もう片方の端で立っている柳田國男を眺めている。)
(柳田のアップ。祈るように両手を合わせ、口に添えたまま黙っている。後ろに壁時計がかかっているが、秒針の音は聞こえない。二人の間の壁いっぱいに、プロジェクターからの青い光が満ちて、その隅に白字で「入力」と表示されている。)
(柳田、口から両手を離して話し始める。)

森島はるか編 最終章 「レンアイ」

まず確認しておきたいのは、先生がBパートで水のイメージを見出し、それらが総合される先としての、水の人としてのはるかちゃんを発見した事です。私は、少なくともそこは多分大きく外れてないやろうなと思ってます。

何やこのスタート。まあはい、そうですね。私もそこまでは異論ありません。


問題なのは、先生がそれらのイメージを大きく捉えすぎ、抽象化して捉えすぎているという事です。水というのが単なる一つの大きなメタファーになってしまい、その豊かなディテールが全て捨てられてしまっている。

先生が水のイメージについて指摘された時、わしが気になったのは、その水がありとあらゆる形をとって現われていたという事です。先生はこれらの一つ一つを十分にゆっくり見ていない気がします。

液体として、気体として、固体としての水があった。溜っている水、流れる水、天から降る水もありました。体に入る水もあれば、体から出る水もある。それら一つ一つの意味を見出していこうという事ですか。

いえ、そういう事ではない。それは、丁寧に見ているようで、結局一つ一つを隠喩として置換し、選択し、範例しているにすぎない。わしはむしろ、水が、あらゆる形をとって現われる事、その連辞自体を、一つの運動として捉えたい。

またそれっぽい話を出してきましたね。続けてみましょう。

万物の根源を水に見出したタレスの話がありました。しかし、そもそもタレスはなぜ、万物の根源が水であるとしたのでしょう。実は、これは誰にもわかってない事なんですよね。

タレス本人の文献が残ってないですからね。ディオゲネス・ラエルティオスや、アリストテレスのまた書きの解釈からしか、言っている事は知られていない。

「おそらく万物の養分が水気のあるものであり、……万物の種子が水分を含んだ本性をもっているから」。これがアリストテレスの解釈ですよね。「形而上学」です。

南方先生の見方に相通じる解釈ですね。養分を含んだ水、原初のスープ、命の生まれる海。それらの神話的性質を科学的に捉えなおしている。

ただし、それはあくまでもアリストテレスの解釈なんですよ。もっと色々な解釈がありうるはずなんです。例えば、ヘラクレイトスやパルメニデスは水をどう言及していたか? ギリシャではなく、インド哲学とかはどうか?

ちょっと牽制しておきますけど、先生、アマガミSSの話をしてますよね?

SSの話です。第4話Bパート、橘くんの頬から流れ、湯気として気化して蒸発し、天空で凍って雪として降り注ぎ、はるかちゃんの目から涙として流れる水、そのめくるめく変化の運動について話をしています。

(柳田、ふいに窓を見遣る。カメラ、建物の外から窓越しの柳田を映す。窓を叩き続けている雨で、その顔は少し揺らいでいる。)

雨が……、今外で雨が降ってますね。この雨はどっから降ってんのか。もちろん空からですよね。で、空から降った雨は、降った後どこに行くんでしょうか。

それは、まあ、下水道ですよね。

下水道から川に流れるよね。そして川から海に集まる。で、海から蒸発した水が、雲になって、再び雨を降らす。捉え方一つでは、雨はどれも雨ですよね。でも、前の雨と今の雨は違うものです。

川はたえず流れ、しかも常にそこに存在し、終始同一で、
しかも瞬間瞬間が新たである。

―― ヘッセ、『シッダールタ』

およそ人間の作ったあらゆる作品から、水のイメージを抜き出す事はできます。しかし、問題なのは、それぞれの作品で、同じ水がどう違うのかという事です。水が何であるかではなく、水が何をしているかという事です。

アマガミSSという作品内自体、水のイメージはいくらでも出てきますからね。七咲編でも桜井編でも別にいくらでも出てくる。森島編に特有の水の動きというのはどんなもんでしょうか。

言ってしまうと……言ってしまうと、流れ、蒸発し、空から降って、また流れる。この流転して絶えず繰り返される運動こそ、森島編における水の運動です。折口君、森島はるか編で、「繰り返し」言うたら、例えば何かね?

告白ですかね。二回の。

三回ね、正確には。これ、他のパートでは、ないよね。アマガミSS以外の作品でも、あんまりこういうのは見ない。それにね、繰り返すのは告白だけではないでしょう。


(もう一度……もう一度眉毛にキスしてほしい!)

え、これ?

いやこれ。これさ、単体でみると、まあオモシロエピソードなんですけど、これ見てた時、わしの言うた事覚えとるか?

柳田 全編通してエッチなハプニングに事欠かない橘くんですが、それを もっかい やらしてくれって要求するのは、この回だけです。

同じ事をもう一回やろうとする。でもって、もう一回やろうとすることそれ自体を、3話の中でもう一回やっている。もう一回のもう一回です。


もう一度、膝裏にキスしたいです!」


「お願いします!」「お願いします!」「お願いしまーす!」

でね。そもそも、二人の話自体がさ。1話Aパート終盤、橘くんがはるかちゃんに惚れて、恋しようと決心する。そっからこの話始まってますよね。あの時、橘が、具体的に何て言うたか憶えてますか?


「僕……また頑張ってみようかな」

一回恋破れた男が「また」頑張る決心をする。森島編で繰り返し現われる事、それは「繰り返す事」そのものです。森島編は、橘くんが「また」頑張る物語、「もう一度」やり直す物語なのです。だから、イヴはこういう誘い方になるのです。


また僕を救ってくれませんか?」

昔振られたこの公園にもっかいやってくる事、そういう昔の思い出を上書きする的な所があるのも森島編だけというのは最初に述べました。でもって、二人でもう一度眺める夕方の海。

でも、見てるものが違いますよね。海と山やったものが、海と太陽になっている。同じ繰り返しではない。

そう! そうなんです。まさにそれこそが、この繰り返し運動の大きな特徴なんです。つまり、森島編では、二人は同じ事を繰り返すけれども、その結果はその度に必ず異なるんですよ。

それが一番わかりやすく現れるのが、ゲーセンでの二回の占いです。森島はるか編全体を読み解くキーポイントとなると言うたのは、そういう意味なんです。

雨は昨日の雨の繰り返しのようで、昨日と同じ雨ではない。川は昨日の川と同じように見えて、その水は一瞬一瞬で違う。先生が水の運動と仰られるのは、そういう意味の事でしょうか。

毎回違う反復というのは、同時にわれわれの持ってる可能性でもあるわけです。今風に言えば再チャレンジなんかもそう。一回目は失敗するかもしれない。でも、もう一度やる事ができるのです。その時は結果は違うかもしれない。

確かに、森島はるか編では、繰り返しが何度も出てきて、その度に話が違う展開の仕方をする。基本的にいい方向にですよね。もう少し例を挙げていきましょうか。

いや。もうあんまり長くはしたくないんでね。あとは見たい人がまた一度見直せばいい。ちょっと告白の話に戻りましょう。

1話の冒頭、また押入に入っていた橘くんは、1話中盤で、また恋をしてみようと誓う。結果、また振られてしまうわけね。でも、色々あってまた告白をする。すると、今度は受け入れられる。

その辺りの詳しい心の動きについては、2話のレビューで既に分析しました。そういえば、あの時、一つだけ手つかずに残しておいたものがありましたね。

折口 キスをする時に脱ぎ捨てる上着というのは、彼女が自分から禁忌を脱ぎ捨てたという事になりますかね。それは同時にある種の保護からも抜ける事になるんですが。
柳田 他ならぬ橘くんがかけてあげた上着なんですよね。実はここで少しだけ二人の間にズレがあるんです。この事はあとあと表に出てくるので、その時見ていきましょう。

この上着の謎について、そろそろ話をしても良さそうですね。

この時、二人の間にあったズレは、4話の中で徐々に表出し、バスタオル巻いた辺りから爆発したズレです。つまり、二人の仲において、橘くんは一枚膜を置いたと思っている。はるかちゃんはそう思っていない。

恋愛がうまくない森島に対して、橘は付き合ってくれではなく、「好きでいていいですか」と一歩引いていた。だからレンアイではなくセッキンだったわけですね。それは一応、橘の思いやりであったわけですが。

でも、はるかちゃんは、そんな一枚隔てのエクスキューズなんて自分で脱ぎ捨てたわけですよ。それでおでこにキスした後に「またね」って言うんでしょ。それからずうっと橘くんのリードを待ってるのに、彼にはその自覚がないのです。

それは例えばどういうところを見ればわかりやすいですかね。

一番わかりやすいのは4話のAパートです。はるかちゃんを待っていたのに、美也と梨穂子と買い物に行ってしまう。最終話でこんな中途半端な事するのは、森島編だけと言いましたね。

せっかく自分の意志で会おうと思って待っていたのに、他の女の子たちに流されてしまった。これは、なんだかんだ言って、ちょっとあわ良くばみたいな所が残ってるんですかね。

いや、そういうわけではないです。というのも、この後、プールで、「目の前に先輩がいるのに、他の女の子なんか見る必要ない」と言い切ってるんですよ。別に浮気心でこういう事やってるわけではないんです。

はるかちゃんは橘くんをボーイフレンドと言うとりましたね。でも橘くんは、まだそう思ってないんです。「そういう関係になりたい」とは思てるけど、「まだそういう関係じゃ」と一歩引いているままなのです。

例の覗くの覗かないのの所ですね。でも、二人は3話で「冒険」に出かけて、無事戻ってきてるわけです。そこから何かが変わったはずなのに、4話になると戻っている。これは何故なんですか?

その冒険が一回きりで終わっているからです。冒険もまた、繰り返される必要がある。金網を越えて行った先が一回目の冒険ならば、エレベーターで昇った先は二回目の冒険になるはずだった。

なるほど。それは同時に、森島の二回目の水浴でもあった。「一回目は公開された、二回目は秘められた水浴」ですね。でも、橘は今回の冒険では失敗してしまう、というか、そもそも冒険に参加しない。

折口君の言うた通り、公開された、スポーツとしての水浴であれば、橘は一緒に水に入れるわけです。水着というのが、そのまま一枚の膜であるわけですね。でも、本当はそれだけじゃあ足りないんですよ。

ちょっと、もう少し、形而下の話をしましょうか。神話とか冒険とかそういうのんじゃなくて、人間としてですね、つまり責任能力を持つ個人として、森島は何がしたかったんですか?

そりゃあ覗いて欲しかったんですよ。

じゃあなんで「覗いちゃダメだよ」なんて言うてたんですか?

「好きなら思わず覗いちゃうもんじゃないの?」って言うてるから、覗け言うて覗いたらそっちこそダメなんですよ。思わず覗いてしまった、ってのが起きないとダメなんですよ。

なんでそれが起きないとダメなんですか?

……ちょっと遠回りして、南方先生が、はるかちゃんの入ったバスルームで、カメラが空の浴槽だけを映す事を指して、中で何が起きているのか、誰もわからないと言うてましたね。でもね、本当は、そんな事ないよね。

誰も何も知らんと言うてましたね。違うんですか?

違います。だって、少なくとも、浴槽に入ってないって事はわかるんやから。

鼻歌歌ってポチャポチャ言うてるけど、風呂には入ってない。じゃあシャワーを浴びてるのかと言うと、シャワーの音も聞こえない。体洗ってる音もしない。たぶん、待ち伏せしてるんですよ。バスタオルはもう巻いてると思います。

万が一橘が覗いてきたら、何かしら返り討ちにするつもりではあったわけですね。でも、まだそれは答えになってないですよね。覗いてきたのをとっ捕まえて、それで何を期待してるんですか?

……橘くんが、同じように覗いてはいけないところを覗いてしまった、それでバレてしまって捕まえられる話が、アマガミSSの中に一回だけ出てきます。七咲逢編です。ちょっとそれを見ておきましょう。


「この時間は、女子水泳部が練習してるのは知ってるでしょ!?」「はい……」
「だったら、どうして覗いていたの!」

うわあああ。これかーー。


「……それは、決して大きいとは言えなくても、毎日の部活で鍛えられた上筋に、内側から押し上げられ、外側からは抵抗を無くすために開発された競泳水着によって圧迫されている胸(中略)
本当に、すみませんでしたあ!!」


ヒィッ


「……そう。君はその事を、たった一人に伝えたかったようね。」

わしはねえ、ちょっとこの辺の流れについては言いたい事がたっくさんあんねんけども、ものっそい沢山あんねんけども、とりあえずね、これ、形としては、ここで橘くんは逢ちゃんに想いを伝えてるわけですよ。

いやもうなんか全員ドン引きですけどね。塚原響は菩薩なのか?

その話はそん時にするとして、ここで重要なのは、覗いてバレて捕まえられると、橘くんは想いを伝えるわけ。という事は、はるかちゃんにバレてたら、橘くんは多分三度目の告白をしてたはずなんですよ。

それはそうかもしれませんけど、それ森島はわからないですよね。別の世界でこんな事になってるとか、見てる我々にしか意味のない理屈なわけで。でも、一応ここで待ち伏せして待ってる。


もちろん、はるかちゃんはそんな所まではわかってないですよ。でも、好きな男の子に彼氏になってもらうために、はるかちゃんは他に知っている方法がないのです。生まれてこの方、恋愛についてはずうっと受け身だったんですよ。

つい一月前までは、好きな人をワザと振るくらい、恋愛に奥手(!)やった女の子ですよ。自分から何かする勇気なんて無い。響ちゃんがまだ側におってくれたら、告白の一つ、自分からしてこいと背中を押してくれたかもしれませんが。

でも塚原はもう離れてしまっていない。で、一人で何ができるかというと、振るための、自衛のための誘い受けはできてた。その唯一の武器を使って、今度は振らなければいい。そのために万全の用意をして、事に及ぶも、空振ってしまったと。

橘くんが哀しみとの付き合い方において、はるかちゃんよりずっと下手なように、はるかちゃんも恋愛関係の築き方において、橘くんよりずっと下手なんです。得意不得意があるわけですよ。あくまで比較ですけど。橘くん告白はできるから。

なるほど。まあ、それがある意味、一番普通の結論かもしれませんね。ふむ、意外と普通の話になりましたね。

え、だから、最初から、普通の話をするって、地味な話をするって、わし……最初から……

あーすみません。忘れてください。申し訳ないです。話を続けましょう。


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うっひょう! ひょひょー! って、ちょっと! これ関係ないでしょ!! わしをなんや思うてんねん!!

や、ちょっと元気んなってもらお思て。

ほんまにもう、全く! 全く失礼な男ですよ、君は。でもこんなん、こんなんもう二度と利かんですからね。なんならほら、もっかいやってみ! ちょっと、もっかいやってみい!

いやあ、もうしませんので、許してください。んで、ちょっと、その繰り返しの話に戻りますけども。

ええぇーー。……まぁ、はい。何ですか。

森島はるかの物語が、繰り返しの物語である事、繰り返す事で違っていく物語という事はわかりました。で、ざっくり質問で、何故そういう話になってるんですか? あと、基本2回でよかったのが最後3回になりますよね。あれは?

最初の質問に答えると、このアマガミSSという作品自体が、高2のクリスマスを繰り返し、繰り返しながら別の意味を得ていく作品だからですよ。その最初に来ているお話だからです。それに……。

それに?

これは、ちょっとすごい個人的で、しかもちょっと、かなりナイーブな話になってしまうねんけど、ええかな。

いや、何をいまさら。どうぞ。

それは、端的に言えば、繰り返すという事は生きていくという事だからですよ。

ああー、またおっきいなあ。


勿論、最初の一発目は必要です。人に出会ったり、この世に生まれたりする事、それは一回きりの奇跡です。でも、本当に重要なのは、一回起きた事を、何回も何回も続く反復の中へ、繋いでいくという事です。

すごい凝ったプロポーズしたカップルに限って、結婚後うまくいかないとか良く聞く話でしょ? 一回きりの事だけうまくやってもしょうがないんですよ。その後を続けないと。

あれ急に小町くさい話ですね。まあ、継続は力という事はそれはそれで否定しませんけど。

アマガミSSでは、ある年のクリスマスがずっと反復される。その度に起きる事は違うんですけども、その中のどれが良いとか、どれが本当だとかいうのは無い。これについては、この先じっくり取り組んでいかなければなりません。

アマガミSSの反復する時間は、作品全体を論じるにおいて、いつかはやるべき本丸ですよね。幸い、反復論や循環論は長い歴史を持っている。それらが役に立つ事もあるでしょう。

とりあえず、今、われわれが目の前にしているのは、その一回目の反復、森島はるか編が、その中にまた無数の反復を内包しているのを特徴とするという事です。そして、この反復は、基本的に二人の未来のために必要なものとされる。


最初の一発目が必要という話はしました。一回きりの、奇跡的で、決定的な出会いです。森島はるか編においては、それは最初の海、海に浮かぶ山、オノゴロ島によって表現されます。しかし、この海もまた、反復され、姿を変えるのです。

海が再び二人の前に現れる時、それは海に沈む太陽という形をしています。これの意味するところは、実は南方先生が最初に言うた通りのものです。「また見つかった、何が、永遠」。この海と太陽は永遠の表象なのです。

ランボーですね。でも、太陽が海に沈むだけで、なんでランボーやと言えるんですか。

それは、この海と太陽が、二回目に現われたものだからです。ランボーのあの詩は、世界で最も有名な、二回書かされた詩なのです。

また見つかった!
――何が?――永遠。
太陽に混じった
海だ。

(ある地獄の季節)


また見つかった。
何が?――永遠。
太陽とともに
行った海だ。

(新しい詩)

クンデラは、自分の小説の中で、永劫回帰の考え方に触れながら、「一度は数のうちに入らない」というドイツの諺を紹介します。一度だけおこる事は、一度もおこらなかったようなものだ、と。

(少し続けて話させてください)一度は数のうちに入らない。だから、二回目が必要なのです。そして、二回目が失敗したら、三回、四回と続けていけばいいのです。別に失敗しなくったってそうです。

森島はるかの物語では、一度きりのものと、永遠のものとが、反復の力によって一つになります。その間に挟まる、橘くんとはるかちゃんの無数の反復行動は、一度きりのものを永遠のものにしていく、人間に可能な唯一の過程なのです。

一度きりであり、かつ、永遠であるもの。それは、明日の事に他なりません。

……うまい具合にカッコよくまとめましたね、先生。良いんじゃないですか。それでは、二人の「明日」がどのような形であったか、エピソードの残りを確認していきましょう。

先生は……南方先生は、だから間違っていたのです。アマガミの世界は、どっか違うところから降って湧くようなものではない。われわれの不断の日々の反復によって、この世界の中から現われるものなんです。

うん。先生?

(建物の中の照明がふいに消える。見えるのはプロジェクターから壁一面に映る、こちらに手を伸ばしている森島はるかの姿。闇の中から、柳田の顔が、その照り返しを受けて浮かびあがる。雨はいつのまにか止んでいる。)

先生は六人のヒロインから六大を見出し、空海の即身成仏論に繋げていた。でも、即身成仏論は、そもそもこの世におって、この世に生きているまま悟りを開こうという事です。先生の理解はおかしい。わしの方が合ってる。

それに、森島ラブリーはるかの計算式も、ラブリーをLovelyとそのまま書いてるせいで、本来発音されないyが入ってしまっている。だから本来の数字は、881からヨッド(10)を引いた871になるはずです。

森島はるかの物語では、一度きりのものと、永遠のものとが、反復の力によって一つになります。その間に挟まる、橘くんとはるかちゃんの無数の反復行動は、一度きりのものを永遠のものにしていく、人間に可能な唯一の過程なのです。

一度きりであり、かつ、永遠であるもの。それは、明日の事に他なりません。

(立ち上がる)先生、先生それはもう言いましたよ。先生、気をしっかり!

(建物の三方の壁が外側へ崩れ、最後に森島はるかを映していた壁が外側へ崩れる。一気になだれこむ光。そこは、元いた通りではなく、砂浜を眺める小高い丘の上だ。)

……明日の計画を立てよう。同じ曲で誰かが応える。僕に言葉を、売る人もいるだろう。明日……明日って何だ?

(ひとり砂浜に立っている柳田。波が幾度もなく押し寄せ、音を立てながら砕け散る。)

はるか。私は今夜、向こうへ渡る。言葉で君をここに、連れ戻す。すべては真実で、すべてが、真実を、待っている。

(柳田、はるかの言葉をつぶやきながら、こちらに背を向け、海に向かって歩き出す。)

むむむ……子犬ちゃん……わお……ごろにゃーん……オーキードーキー……

(画面の外から、柳田を呼ぶ折口の声が聞こえる。)

(オフ)先生ーーー!!

(柳田、歩き続ける。同じ言葉をつぶやき、それは徐々に叫び声になる。叫び声に涙が混じる。その表情は見えない。)

むむむー!! ……子犬ちゃん!! ……わお!! ……ごろにゃーん!! ……オーキードーキー!!

(オフ、さらに大きな声)先生ーーーーーーー!!!!

(波は砕かれ続ける。暗転。)

棚町薫編 第一章「アクユウ」