この文章はラフ・コスターの「Is immersion a core game virtue?」の不誠実な翻訳である。この翻訳には多くの誤りや飛躍が含まれている。
ラフ・コスターはUltima Onlineのデザイナーであり、EverQuest 2やStar Wars Galaxiesのプロデューサーであった。
「神秘性が消え去ったような……没入感(Immersion)が無くなったような感じがします。私は……長くて、入り組んでて、複雑な、ストーリー主体のゲームを遊ぶのが大好きだったんですが、今ではそんなゲームから引き離されて、市場全体がそんなゲームから引き離されて、そっちの路線にはもう行かなくなったような思いがします。」
― リー・アレクサンダーによる、ラフ・コスターへのGamasutraでのインタビュー
没入感は最初からゲームに備わっていたわけではない。ワールド・オブ・豆あそびだとか、ワールド・ビルディング・オブ・囲碁だとかに吸い込まれたという人はいない。もちろん、遊んでる間ずっぽり夢中になったり、「フロー状態」に達したりする事はあっただろう。でも、それはたとえば現実とは別の世界に連れていくという類の没入ではなかった。そういうのは本の役目だった。
それに、ビデオゲームの世界はたいてい、そういう本とかで行ける世界とはまた違っていた。私もJoustの世界には他に何があるのか気になったり、Berzerkで被害妄想に陥ったりする事はあったが、その世界に行きたいとは思わなかったものだ。
やがて、何かが変わった。私にとってはテキストアドベンチャーや初期のUltimaがその始まりだった。本当にありそうな場所を探検できた。そこにあるものを触れる事ができた。そして変化を起こす事ができた。初めて、自分は現実ではない別の世界に訪れているんだという感じがした。ジョーダン・メックナーのKaratekaでは、初めてゲームをしながら映画を見ている気分になった。
D&Dの赤箱を手に入れた時は、友達みんなで一つの世界を作り、最終的にはルールもそっちのけに、ダイスも本も使わず、何時間もただみんなで話を作りあげるだけのセッションをした。みんなで夢を共有していた。
それらの夢は、私にとっては、やがてMUDやMMORPGという形に結実した。今度は見ず知らずの人々も一緒だった! そして、ゲームデザイナーとして、私は没入感をゲームの中心的な価値と考え、それにすこぶる集中した。
私だけではなかった。DOOMの興奮であるとか、Half-Lifeの語り口であるとか、The Elder Scrollsの世界であるとか、WizardryだとかFalloutだとか、同じ事はたくさんの人に起こった。
ところで、かつてスポーツで死人が出るのは普通の事だった。アステカの古代サッカーだろうが昔ながらのラグビーであろうが、グラウンドでの死は、スポーツでは覚悟すべき、避けられない一部として考えられていた。
我々がゲームにおいてなくてはならないと思っていたものが、実際はふいに出てきた流行にすぎず、やがて廃れてゆく。私は没入感もその一つだと考えている。
モバイルで、割り込まれがちな現代において、没入感は意味をなさない。あれは何かに何時間もの間を費してからはじめて現れるものだ。でもって、ゲームが大衆的になればなるほど、それは長い一人セッションというよりは、バラバラの細切れとして遊ばれるようになる。市場も変化する――より多くのターゲットにリーチする方へ予算が割かれ、パブリッシャーの注目も割かれ、デベロッパーの工夫も割かれる。
自分の息子や娘がゲームで遊んでるところやRPGのセッションに参加してるところを観察するたび、ゲームの世界に没入できる人というのは、元々そういう性格の人であるという事、そういう人はゲームがなければまた違う別の何かに没入するだろうという事を、不承不承ながらも認めざるを得なくなる。そういう意味では、没入感はマス向けではない。というのも、たいていの人は、今の自分と自分のいる世界に満足しているからだ。我々のようなクレイジーな夢想家だけが、常に他なる世界を求め、ふらふらしているのだ。
でもって、ゲームはもはやクレイジーな夢想家だけのものではないのだ。
今日では、いくら私の大好きな没入感の強いゲームの最中にも、XBOX Liveのポップアップがぽこんと出てきて、何か、誰かがログインしてきたんだと、でもって、スカイリムで勇者フロスガールになりきるのはやめて、エイリアン狩りの共同前線に入ろうよと聞いていると、でもって、今日仕事で何があったとか話そうよ、ついでに趣味の悪いジョークも聞いてくれよ、生声で、と知らせてくれるのだ。
私が直接関わったようなゲームの世界でさえ、その魔法はさまざまな頭文字略語とノウハウによりズタボロに砕かれた。野良PTや譲渡不可アイテム、秒間ダメージ計測やキュー待ちやレベル範囲や使い魔アンロックとか乗り物コストその他のゴミクズは、果たしてあの吊り橋を渡って川を越えちゃうかどうか悩んだり、渡ったが最後、凶暴なトロールどもが跋扈する地で立ち往生してしまうんじゃないかと恐怖したりする事にはほとんど何の関係もない。埃を被ってキイキイと鳴る、亡き女王のガイコツから、水晶の王冠を取り去ろうとする時に湧き上がる畏怖とも、または我々の頭に浮かぶ二つの月や、夜空の星座に輝くあの星は実は既に息絶えていて、我々が見ている光は一千万年前の、銀河の生まれた時のものである事とも何の関係もないのだ。
世界は単なる手段となり、魔法は長持ちしなくなる。というのも、いつだって世界のほうから、君はゲームをやってるんだと、ぶしつけに自覚させてくるからだ。君がやってるのは遊びなんだと、そうじゃないフリをしているだけなんだと。そして、自分たちがフリをしているだけなんだと気付く時というのは……まあ、夢が夢だとわかる時は、夢から覚める時だ。
嘆かわしい。私の愛した深い没入感やおたく受けするディテールが、段々と失なわれていく事が嘆かわしい。自分が頭からどっぷりハマっていたものが、極めて高額な投資案件となり、ボタンのついた映画として、我々ではなく、彼らの用意したストーリーを見せる方へと金がつぎ込まれていく。私にはそういう風に見える。
しかし物事は変わってしまうものなのだ。没入感はゲームの中心的価値ではない。単に一つの様式である。それは驚くほどヒットした様式だし、この先も時々目にするだろう。今のヒットチャートの音楽から、ふいにスウィングミュージックの残響が聞こえてきたりする様に。我々夢想家たちのために、流通も続けられるだろう、ニッチ向け商品として、たぶんもっと高い値段だったり、その筋の専門店でしか手に入らなかったりで。偏屈年寄りウォーゲーマーたちが味わった気分を理解する日がついにやってくるだろう。
しかし、今、手元で起きている事を捕まえる事は、大きな未来のチャンスへと繋がる。ゲームが世紀のエンターテインメントの中心として据わった未来だ。我々はいつだってゲームのもつ可能性を自慢気に語っていた。
今、我々には受け手たちがいる。そして、更に多くの受け手へゲームを開放して行くための、真に多様なメカニクスや、技術的な理解や、感情の機微や、文化的な幅を手に入れつつある。これらはいずれも、我々の展望を実現可能にするものだ。
「別の考え方をすると、我々は常に、ゲームこそ21世紀の芸術様式になるだろうと言ってきました。ゲーマーたちが成長して、世界を占拠するようになると。我々はまさにその瞬間に立ちあっています。夢はかなったのです、ただドラゴンやロボットたちは、我々とは共にいないで、後ろに居残ってしまったのです。」
多くの読者がこの文章を読んで顔をしかめるだろう事は気付いている。気休めの言葉を言えば、それらの世界――冒険と神秘に満ちた、月が二つあったり、エイリアンの群れが押し寄せてくるような世界、その隅から隅までを何時間も空想し続けたそれらの世界は、いつだって画面ではなく、あなたの頭の中にあったものなのだ。
そういう世界を用意したゲームは段々少なくなるだろう。相変わらずウザいポップアップにいらいらさせられ、ドラゴンのいる山頂への道は料金所が設けられているかもしれない。
しかし、夢見る人は夢を見続けるだろう。誰もその夢を持ち去る事はできない。星の光が消え去っても、その宇宙は常に新しくあり続けるだろう。
(この文章はちょっと前にリー・アレクサンダーより行われたGamasutraでのインタビューにヒントを得たものだ)