アマガミ: インプレッション


私のようにあらゆるゲームから愛される真のゲーマーでも、自ら進んではやらないといったタイプのゲームは存在する。たとえば、私はめったにフライトシムやレーシングゲームをやらない。潜水艦シミュレーターや農場経営ストラテジーもこの枠に入れてよいだろう。

デートシムは日本ではギャルゲーと呼ばれている。私はギャルゲーをこれまで2本プレイした。一つは大学時代、先輩がコピーしてくれたフロッピー2枚の大作、魁!メモリアルで、私は雷電とのささやかなデートを楽しんだ。それからだいぶ経って、トゥルー・ラブストーリーを友達の家のプレイステーションでプレイした時には、ヒロインがちゃんと女性の形をしている事に感心したものだ。


私が攻略したヒロインたち。どれもいい思い出だ

アマガミトゥルー・ラブストーリーの遠い子孫にあたる。このゲームは2009年3月エンターブレインより発売され、2011年3月にエビコレ+ アマガミとして再発売された。私はこのゲームに興味を持たなかったが、2010年夏より放映されたテレビアニメが私の態度を変えさせた。アマガミSSはとてもエモーショナルな作品で、視聴者を読みの愉しみへ誘うディテールに満ちていた。私はエビコレ+ アマガミを(仮病して)発売日の朝に手に入れた。

私は今、エビコレ+ アマガミを20時間ほどプレイしたところだ。そして20時間のプレイでは、とうていアマガミの全容は見えてこない事がわかった。とはいえ、20時間といえば、Modern Warfare 2ならまるまる3回クリアできる時間であり、Civilization 4なら2回目のプレイで近代に入れるくらいの時間である。折り目正しいレビューは難しくとも、第一印象として感じた事を書き残すくらいは許されるだろう。私はこのゲームをとても気にいった。


アマガミのヒロインたち。裏表がなく魅力的だ

私がプレイした20時間のうち12時間は、アマガミのメインパート、つまりマルチメディアでセミ・インタラクティブな、紙芝居風ドラマを楽しむ事に費やされた。プレイヤーキャラクターの一人称視点で見せつけられる、ヒロインとの恋のステップの一歩一歩は、そのどれもが極めて浄土的なストーリーを持ち、順列組み合わせながら表情豊かに動きまわるヒロインたちのグラフィックや、エロスよりもエロいもの、つまりエロスへの予感のみを注意深く凝縮したダイアログが合わさって、大の男がよってたかって作れるものの中では最高にかわいい類のものに仕上がっている。


アマガミのストーリーは、基本的にプレイヤーキャラクターとヒロインの5~10分程度の対話篇で構成される。
このようなものがヒロイン一人につきだいたい200本ある

声優のキャスティングとその演技はただただファンタスティックだ。アマガミに出演している声優たちは、彼女らの演じるヒロインに最大限マッチしているだけでなく、およそ人類の体験しうる範囲ではもっとも魅力的な声色を使って、ゲームのナラティブに魂を与える。声優たちの演じるダイアログは、いつでも好きな時に好きなだけ再生が可能であり、私はいつもサバサバしている棚町薫(佐藤利奈)が料理に失敗して火事を起こした時の「ひゃあ」というそこだけやたらかわいい悲鳴を出現後すぐさま60回再生した。最初はただそのかわいらしさだけを繰り返し楽しんでいた私は、いつしかその悲鳴でささやかなリズムを刻むようになり、場内は徐々にアブストラクトに展開していく私と佐藤利奈(の声)のジャムセッションを熱く静かに見守っていたが、それはまた別の話だ。


ボタンを押すだけで女の子と会話できる

20時間のうち2時間は、○ボタンを押す事に費やされた。ダイアログを読み進めるために○ボタンを押さなければならないからだ。自動で読み進めるように設定することもできるが、読み進みの速度が微妙に遅いので、どの道○ボタンを押す事になる。特にダイアログの中にはこれといった意味のない、単に間をもたせるためだけの「・ ・ ・」というメッセージが頻出するので、私はその度に怒れる神のように○ボタンを連打しなければならなかった。このような連打は私に、かつてファイナルファンタジー7で、主人公のクラウドが「俺は何者なんだ」と両手で頭を抱え、その頭を左右に一回振るたびに一回○ボタンを押させた1事を思い出させる。クラウドはどれだけ構ってちゃんなのか?

しかし、ポリゴンの紫ボックス野郎の身の上話にイチイチ相槌を求められるウザさに比べれば、アマガミの○ボタン連打はずっとその徒労感に見合うものだ。ダイアログは面白いし、何ならちょっと遅くても別にオートでページ送りでいいやってそのうち気付くからだ。とはいえ、プレイヤーキャラクターとヒロインが睦みあう世界にプレイヤーが介入する手段はどの道○ボタンを押す事の他にはないので、プレイヤーは最終的に○ボタンこそが自分とヒロインを繋ぎとめる絆である事に気付く。私はプレイヤーキャラクターやその男友達がしゃべる場面では○ボタンを押さないが、ヒロインが何かをしゃべる場面ではしゃべり終わりの頃合いを見計らって○ボタンを押す。それは決して届く事のない祈りのようなものだ。また、ゲームが進むにつれ、×ボタンやL1ボタンなど他のボタンを使えるようになるのもうれしいところだ。

20時間のうち6時間を、私は何もせずに過ごした。いや、この言い方は正しくない。

20時間のうち6時間を、私は、ゲーム中次に取るべき選択について、考えあぐねる事で過ごした。

アマガミは選択のゲームだ。もちろん、あらゆるゲームは選択の連続体だ。しかし、その多くはアマガミほど意識的ではない。選択こそは、アマガミというゲームのコアになるメカニクスである。以下、私がもっとも感銘を受けたこの部分について述べよう。


アマガミの行動マップ。私の知る限りもっとも反戦的なヘックスタイルの使用例だ

私がプレイしてきたギャルゲーのメカニクスは、どれも常に"HOW"をめぐるものだった。女の子と仲良くなりたい。しかし、どうやって? プレイヤーは、ゲームの提示する選択を通して、「どうやって?」の部分に答えなければならない。


代表的なギャルゲーの一つ、「私におまカフェ」。プレイヤーはコーヒーをブレンドしなければならない


代表的なギャルゲーの一つ、「プリズムコート」。プレイヤーは長沢美樹の歌を聞かなければならない

魁!メモリアルでは、プレイヤーキャラクターはヒロインと仲良くなるために、まず自分を磨かなければならない。雷電に気に入ってもらえるためには、算数の勉強に励み、「九九」のパラメータを一定量上げなければならない。同じ三面拳の月光の場合は、貪欲に書物に親しみ、「民明」のパラメータを上げなければいけないといった対策が必要となる。これに加え、ヒロインが行きたそうな場所をデートスポットに選び、デート中に発生するハプニングに対しては都度適切な選択肢を選ぶ必要がある。

トゥルー・ラブストーリーでは、プレイヤーキャラクターは校内をうろつき、ヒロインが居そうな場所に出向かなければならない。運動好きなら体育館、勉強好きなら図書館といった趣だ。運が良ければ女の子に会える。ここである程度顔を通しておけば、放課後に一緒に下校する事ができるので、「学校の話」や「音楽の話」等、ゲーム内で用意された十数種類のトピックの中から、ヒロインが好きそうな話題を振って、雰囲気を盛り上げていく必要がある。

どちらもヒロインと仲良くなるためには、何らかの手段を取らなければならない。その手段をどうデザインするかは各々のゲームのフレーバーによる。ある特殊な職業内容によりかかったものもあれば、ある特殊な地理背景によりかかったものもある。時には一本のターンベースストラテジーを丸々プレイする必要もあるだろう。様々な手段を通して、プレイヤーは好きなヒロインと「どうやって」仲良くなっていくか、ゲームに対して提示していく事になる。

何か間違っているだろうか? もちろん、何も間違ってなどいない。アマガミをプレイするまで、私はそのように思っていた。しかし、一度アマガミをプレイしてしまうと、私はこれらのゲームデザインが根本的に間違っていると思うようになった。アマガミがプレイヤーに求める選択は、魁!メモリアルトゥルー・ラブストーリーとは根底から異なっていたのだ。

アマガミは徹頭徹尾"WHICH"のゲームである。一部の例外を除き、アマガミは決してプレイヤーに"HOW"の選択を求めてこない。アマガミが要求してくる選択は極めてシンプルである。「女子Aと仲良くなるか、女子Bと仲良くなるか」だけだ。プレイヤーにとって重要なのは「誰と」仲良くなるかであって、「どうやって」仲良くなるかはゲームの側で考えてくれる。


はい、行動マップだよ。もっかい見てみようね

ゲームを始めると、プレイ画面の大半をヘックスタイルのマップが占めている事がわかるだろう。これは行動マップと呼ばれるが、マップというよりは神経衰弱のように裏向きに並んだカード群を想像したほうがわかりやすい。各ラウンドの始めに、いくつかのカードが表向きにされる。オレンジ色のカードは梨穂子のカードだ。緑色のカードは薫のカードだ。梨穂子のカードを取れば梨穂子と仲良くなる。薫のカードを取れば薫と仲良くなる。えっ、これだけ?

これだけだ。他に何が必要だったというんだ?

梨穂子のカードを取れば、梨穂子との仲がどうやって進展したか、先述したマルチメディア・ドラマで示される。どのエピソードも極めてクオリティが高く、1パイントのチョコレートシロップを丸呑みしたかのように甘い。前頭葉が痺れをきたし、すぐに次が欲しくなる。すぐさま、さっき取ったカードに隣接するカードが表向きにされる。やったぜ、次は梨穂子とランチを食べに行くか? それとも校庭のテラスで一緒に日向ぼっこをするか? しかも、薫のカードもまだ離れたところで表向きにされたままだ。薫とは仲良くなっておかなくていいのだろうか? はるかはどうだ?

カードにはそれぞれ取得できる期間があり、その期限はプレイヤーに明示される。全てのカードを期限内に取ることはできない。取れなかったカードはその周りのカードも取れなくなるので、取れないカードは取れるカードと同じくドミノ方式に増えていく。シンプルなジレンマながらその葛藤は凄まじく、クニツィアの最良の仕事を彷彿とさせる。しかもここでのカードはただのトークンではなく、ヒロインとの心踊る愛の一場面一場面なのだ。


DOOMは、どの武器で、どの敵を倒すか、選択するゲームだった。Might & Magic VIは、銅鑼を鳴らすか鳴らさないか(鳴らしたらどの角度でファイアボールを打つか)を選択するゲームだった。マリオは基本的に上の道を通るか下の道を通るかのゲームだ。あらゆる偉大なゲームは殆ど、良い"WHICH"をプレイヤーにつきつけてきた。良い"WHICH"は、そのゲームが究極に目指している快感と密接な関係がある(DOOMで一番スカっとする瞬間といえばどれだ?)。

私におまカフェのパッケージでは、かわいらしい五人のヒロインがこちらへ笑いかけている。「何てかわいい女の子たちなんだ、ぜひとも仲良くなりたいものだ」と私は思う。その時、「コーヒー豆をうまくブレンドすれば仲良くなれますよ。どうです?」と聞いてくるのは端的に間違っている。コーヒー豆をどのようにブレンドするかは、プレイヤーがそのゲームに究極的に求めている快感と何の関係もないからだ。「何てかわいい女の子たちなんだ、そして奥深いバリスタへの道なんだ」と思うようなプレイヤーが世の中にいるだろうか?


ギャルゲーのHOWモデル

ギャルゲーのHOWモデルが間違っているのは、プレイヤーがゲームに期待する快感とゲームがプレイヤーに要求する問題が、一見お互い関係するようで実のところは無関係だからだ。我々が好きな女の子ができた時、「どうやって」仲良くなるかと考えるのは、あくまで仲良くなりたいからであって、考える事自体が楽しいからではない。同じように、プレイヤーは、ヒロインとどうやって仲良くなるか、試行錯誤がしたいわけではない。プレイヤーは、単に仲良くなりたいのだ。

にもかかわらず、「どうやって仲良くなるか」の試行錯誤をプレイヤーに求めた時、「ヒロインと仲良くなる」というゲームの真の快感は後景化する。必然的に、プレイヤーの試行錯誤とそれに対するゲーム側の判定が前景化してしまうからだ。この時、ゲームはプレイヤーに対してさながらヒロインたちの父親のようにふるまう。わしの娘と付き合いたいというのかね? はい、こうこうして頑張りました。 うむ、その程度じゃ、全然ダメだね。 では、こちらをこうこうしてみましたが、どうでしょう。 うむ、おしいね、しかしまだまだダメだね。 なるほど、もう少しこちらを伸ばしてみましたが、どうでしょう。 うむ、いいね、とりあえずランチを一緒にするくらいならいいよ。 やった!ありがとうございます!

しかし全然ありがたい事ではないのだ。この時点で女の子よりこの父親のほうがよっぽど長く君と付き合っているからだ。理解のあるいい父親だと思うだろうが、ゲームの目的からして、女の子ではなく、父親とのやりとりが主になっている時点で、何かがバラバラになっているのだ。


ギャルゲーのWHICHモデル

アマガミのモデル、ギャルゲーのWHICHモデルでは、ヒロインと仲良くなりたい、というプレイヤーの思いに、「いいですね。全員は無理ですけど、一人二人くらいならなんとかなりますよ。どうです?」と聞いてくる。「仲良くなること」そのものが問題となるのだ。ここでは、プレイヤーがゲームに期待する快感とゲームがプレイヤーに要求する問題がピッタリ重なっている。DOOMMight & Magic VIやマリオと同じだ。プレイヤーの行動とゲームのフィードバックと、プレイの快感とが、ここではクイックに連携している。

WHICHモデルでは、ゲームはプレイヤーに対して女衒のようにふるまう。倫理的には最低な事だが、ゲームのデザインとしては正しい。また、ゲームがプレイヤーにつきつけるジレンマが、ここでは常にプラスとプラスの間のジレンマである事も注目しよう。つまり、どちらの選択肢を取っても、プレイヤーは快感を得る事ができる。たとえば、トゥルー・ラブストーリーでの校内移動は、プラスとマイナスの間のジレンマであった。正しい選択をすればいい思いができるが、間違った選択をすれば何も起こらない。緊張感は生まれるだろうが、間違った選択をした時に、何も楽しくないという欠点がフォローされないでいる。Civilization 3の黄金期のエピソードを覚えているだろうか? このようなジレンマを、一般的にゲームは使うべきではない。


どのような選択もプラスの結果をもたらす

銀の弾丸のようなデートシムのWHICHモデルだが、残念ながら万能ではない。それどころか、HOWモデルに比べ致命的な弱点が存在する。それはリプレイアビリティの低さだ。女の子とのドラマのためにあれこれやるHOWモデルと違い、WHICHモデルでは女の子とのドラマそのものがゲームになる。ドラマは当然中身が固定されているので、一度楽しんだドラマのリプレイアビリティは短編小説のそれとだいたい同程度だ。チョコレートシロップはすぐに空になる。

アマガミは、二つの面でこの弱点を克服している。一つ目は、カード(=ドラマ)の数をしゃにむに増やした事だ。アマガミには6人のヒロインがおり、1人のヒロインにつきだいたい200余りのカードが用意されている。ヒロインたちの絡まないイベントも合わせると、カードの数はだいたい1300~1400程度はあるだろうと想像される(マップの広さは64*64=4096なので、実際はもっとあるのかもしれない)。これは私のようにいい年こいてギャルゲーを楽しむようなプレイヤーの、一般的な大脳皮質を軽くオーバーフローする数だ。第一のリプレイアビリティがこれによって担保される。一回二回のプレイではとうてい全容は把握できないし、三回四回のプレイでは前に何をやっていたのか忘れている。

1000余りのカードの内容を全部把握しているキレ者たちに対しては、アマガミは二つ目の、もっと根本的なリプレイアビリティを用意する。といっても、システム的に何かの工夫がなされているわけではない。単に問題の出し方を変えるだけだ。どのカードを取れば、何が起きるか、もうだいたいわかってますね。さて、今回のプレイヤーキャラクターには、どんな恋愛人生を歩ませますか?

ここではじめて、カードだと思っていた一つ一つのドラマが、カードではなくレゴブロックであった事が明らかにされるだろう。プレイヤーはようやくここで、アマガミにおける"HOW"の問題に取り組むことになる。高校生の恋愛における、一通りのバリエーションが用意されている中、プレイヤーキャラクターが辿れる最高の道筋というのはどんなものだろうか? もしくは、最低の道筋というのはどんなものか?

あらゆる偉大なゲームと同じく、アマガミはミクロな"WHICH"を積み重ねながら、マクロな"HOW"に答えていくゲームだ。そして、"HOW"に答えていく事に、終わりはない。(このような遊び方が可能になるのは、アマガミのゲームメカニクスが極めてシンプルだからだという事を覚えておこう。レゴブロックのパーツを一つ取ることに、パラメータチェックや乱数判定が行なわれていたら、我々は完成まで正気を保てるだろうか?)


何となくそろそろまとめっぽい画像が欲しいところだ

アマガミが達成したゲームデザインのエレガントさは称えられるべきものだ。スタッフロールにチラっと映る以外、オフィシャルウェブサイトなどでも一切触れられる事なく、検索してもそれらしき人物が一切出てこないというのは不思議だが、ゲームデザイナーの三葉寮はジャンル始まって以降の賛辞を贈られるに相応わしいだろう。

アマガミによって大きな一歩を踏み出したギャルゲーというジャンルに、次どのような新たな一歩が待ち構えているか、予想する事は難しい。私の考えでは、次の世代のギャルゲーは、Sporeと同じように、プレイヤーごと何人かのヒロインをプロシージャルに生成し、次の次の世代では、ヒロインの声やストーリーそのものも自動生成することで、唯一無二のプレイ体験とリプレイアビリティを確保する事だろう。そのようなギャルゲーが可能になるためには、グラフィックデザインや音声合成の技術だけでなく、言語工学や物語理論、何より人工知能と哲学の発展を辛抱強く待つ必要があるだろうが、私はそれまでの長い期間を、目の前のアマガミでまだまだ表向きにされていないカードたちを、一つまた一つと、アドベントカレンダーのように楽しみながら待ち続けるつもりだ。


Clavis Auは東京駐在のPCゲーマー。エンジニアとして働く傍ら、ゲームについて多くのツイートを発表している。
最近気になっているゲームは、Winter VoicesとFate of the World。
写真は2008年惜しまれながら世を去ったアメリカ人作家、デヴィッド・フォスター・ウォレス。


1. 比喩だ

追記

このインプレッションは私の予想を遥かに上回る反響を呼んだ。あまりに訪問者が多いので、わずか3日という驚くべきスピード感でサイトマップまで作ったくらいだ。私のデータでは、この1週間でおよそ1万に及ぶ人々が雷電の尊顔を目にした。
寄せられたフィードバックの中には、私の無知を親切に補ってくれるものもあった。いずれもこのゲームおよびこのジャンルに通暁した者からの意見であり、傾聴に値する。

市川望は、私のまだ知らない、行動マップがまさしくマップとして機能するアマガミの境地について教えてくれた。ここでは、プレイヤーはマップの上で、迷い、推理し、足跡を残し、道を切り開く。かつてスカラブレイで我々がそうしたかのように。
Bard's Tale 2のキャッチコピーが"A whole new way to get lost"だった事を想起すると(これはビデオゲームの歴史の中で私がもっとも気に入ってる言葉だ)、このコンセプトの転生は非常に面白い。オートマッピングとGPSとヤフーでググれる現代的な世界で、我々が迷えるのは愛の中にしかないかのようだ。

岩崎啓眞は、どうしてギャルゲーの中でWhichモデルではなくHowモデルが選ばれてきたか、このジャンルの成り立ちを振り返りながら、歴史的な事情と作り手側の要因という二つの面から説明してくれた
中でもときめきメモリアル魁!メモリアルの直接の祖先にあたる)がどのような目論みの元に登場し、受容されていったかという証言は興味深い。マーケティング戦略とプレイヤー側の誤解という一見ねじれた要因から、新しいジャンルとその強固な文法が出来上がっていく様は、チャーミングで示唆に富むものだ。