この文章はRock, Paper, ShotgunのGaming Made Me: Colossal Cave Adventureの不誠実な翻訳である。
リー・アレクサンダーはGamasutraの特約編集者であり、EDGE他さまざまなメディアにゲームについての文章を寄稿している。
彼女はFour Leaf StudiosのKatawa Shoujo(かたわ少女)をメインストリームのメディアに紹介した最初の一人である。
おなじみ超主観的ゲーム回顧録シリーズ、「私を作ったゲーム」。今週はLeigh Alexanderが、とあるゲームから与えられた深遠なる現実逃避と目のくらむマッピング作業について語る。そのゲームの名前はColossal Cave Adventure、またの名をAdventure、またの名をADVENT、またの名を、「世界最初のアドベンチャーゲーム」だ。
ニューヨーク市に住んで九年になる。それでもマンハッタンの碁盤の目の中でしょっちゅう方向感覚を失ってしまう。地下鉄の階段から地上に吐き出されて、太陽のまぶしさに目を細めると、だいたいどっちが北なのかわからなくなっている。目印になりそうな建物によろよろ歩み寄って、どっちに向かったものかとiPhoneのコンパスを振り回す。わたしの地図の読み方ときたらひどいものだ。
でも、最初からこうだったんじゃない。子供の頃、わたしは空想世界の地理学者で、いちばん仲良しのシャーロットと遊びながら手作りの地図を作っていた。
近所の森の地図もよく描いた。マサチューセッツ州のとある郊外、わたしの育ったところでは、小さくのどかな家々を緑の草木が取り囲んでいて、子供だったわたしはそれを当たり前だと思っていた。それが稀な事だとはまだ知らなかった。大人になり、金属と無情なアスファルトの大都市を住処とした時、それがどれほど遠い思い出となるかも知らなかった。
リバティー・ヒル・サークルは、きっとわたしが子供心に感じたほどには、大きな場所でも、神秘的な場所でもないだろう。でも、記憶の中では、そこには息する巨木と、空想上の蛮族の恐しい野営地と、「川」――家と家を隔てる木々の間に泥溝があって、ときたま粗末な厚板が橋がわりに置いてあった――とが、シャーロットとわたしを待っていた。小径を追い、壁をよじ登り、捨てられたオモチャもただのゴミも、どんなちょっとしたものでも魔法にかかっている見込みがあった。妖精たちの王冠が、殺人事件の手掛かりが、旅人たちの道しるべがあった。
一度だけ、道に迷って、数ブロック離れた大通りまで出た事があった。二人で大泣きしながら道を行ったり来たりして、結局親切な誰かが自分の家から飛び出てきて、わたしたちをそれぞれの家に連れ戻してくれるまで泣いた。あの数々の旅路の中で、道に迷ったのはあの一回だけというのは大した事だと今でも思う。トラブルらしいトラブルもあの一件だけだった。スニーカーを泥でダメにしたり、2、3回夕食に間に合わなかったのを別にしては。
ともかく、子供の頃のわたしにとって、世界とは長い一続きの地図であり、森であり、秘密の場所だった。外で遊んだあと、わたしとシャーロットは、夏の日射しを逃れて、シャーロットの家の地下階に逃げこんだ。そこはまた別の魔法の空間だった。シャーロットのお父さんは、わたしから見ればマッドサイエンティストそのもので、自分の持ち物は全部そこに仕舞いこんでいた。ばかでかい本棚を満たした微積分学のテキストは、ほとんど異国の言葉で書かれた経典のようだったが、わたしたちの「高校生のお姉さんごっこ」にはまたとなくピッタリだった。大箱の中にはうっとりするくらいたくさんの色のケーブルが小さくどぐろを巻いていた。古い茶色とオレンジ色のソファーは座るよりお城ごっこをするのに適していた。垂木からはロープで作った馬がぶら下がっていて、それはシャーロットのお父さんがシャーロットとその兄弟のために作って彩色したものだった。
そのクールな空間は単なる避暑地以上のものだった。中でもいちばんすごかったのは、冷蔵庫くらいの大きさのあったコンピュータと、ピザボックスくらいの大きさのあったディスクの棚だった。それはいわば箱舟、モノリスであり、そのディスプレイはあの太古の黒地に緑のものであって、1980年代当時ですら、明滅する緑のカーソルが、R、U、Nと入力するたび右へシフトしていくと、自分が古代のプログラマーか何かにでもなった気にさせたのだった。二人とも家にPCがなかったわけではない。コモドール64とApple ][eがあって、わたしはそれでゲームを遊んだ。ディスクはペラペラのフロッピーディスクで、ディスプレイはカラーだったけれど、そのPCが占める空間は、物理的にも、わたしの心理的にも、ずっと取るに足らないものだった。
その古いコンピュータにはたった一つのゲームしかなかった。探検家にして地図製作者だったわたしたちにピッタリなことに、そのゲームは、ADVENTUREと打ち込む事で始められた。
そのゲームは森のそばに立てられた家の前から始まった。その家には郵便受けがあって、鉄製の格子蓋へと続く小径があった。わたしたちが近所で繰り広げた探検の旅と、そう違うものではなかった。そのゲームはそれら全てを(言うまでもなく)言葉だけで説明し、わたしたちはコマンドを打ち込んでそれに応えた――いくつかの方角や、単純な命令、GET、DROP、OPENを。その頃、まだ六つか七つくらい歳だったわたしは、自分は今何らかの冒険家になるための、失われた世界の発見者になるためのトレーニングを受けているのだと信じこんだ。それか、シャーロットのお父さんのような科学者、太古のプログラミング言語でマシンと会話し、その中にある世界の地図を、ドットマトリクスプリンターの紙に描き出すような科学者になるためのトレーニングを。
時おり、わたしたちがゲームを遊んでいるそばで、シャーロットのお父さんが隣の部屋で高熱の器具でサファイアの合成に取り組んでいた。その成果といえば、わたしのイメージしていた青い宝石とは似ても似つかないくすんだ石ころだったし、今にしても、いったい何をどうやれば人間にサファイアの合成なんて事ができるのか想像もつかない。けれど、その何物かが点火され、火花を散らす音と、冷蔵庫大のコンピューターのあげる苦しみの吐息とが、代わりばんこで緑色の光を浴び、N、S、E、Wの地図を線引く二人の女の子の、長く過ごした地下室でのBGMなのだった。二人の書きなぐったノートには、今ではすっかり有名になったXYZZYのようなコマンドや、もう少しマイナーなPLUGHなどのコマンドがあった(とはいえ、その言葉を叫ぶ空虚な声に、わたしたちがどれほど恐怖したことか)。
緑の罫線の入ったプリント用紙に地図を描き、紙がいっぱいになると別の紙をくっつけて広げていった。紙はゴム糊のしみで汚れていて、その刺激臭のするゴム糊を、わたしはいつも順番待ちの時間に持って遊んだ。あのゲームの世界で定期的に現われてる「汚らわしい小さなドワーフ」は、ナイフを投げて煙と消える時にこういう臭いをさせるに違いないと思った。
近所の本物の森を歩いているさなかに、ゲームの世界の話をする事もあった。「どのような驚くべき真実が、あのゲームの終わりに明らかになるのか」というのは、「どのような宝物が、この間の(本物の)探検で辿り着いた場所の先に待っているのか」というのと同じくらい気になる事だった。学校ではゲームに影響された短いお話を書いたりもした。思いつきだらけの、およそ起承転結を欠いたそれらの物語では、「わたし」という語り手が、次から次へと難問を解決していくのだった。わたしは、あのゲームのどこかで、馬や、廃墟の城が出てくるのを想像する事が好きだった。
ゲームのそっけない文章が逆に、そのような空想を手助けしていた。明朝の陶磁器や、真珠や、エメラルドのような宝物が、持っていってくださいと言わんばかりに、そこらじゅうに散らばっていた。でも、何のために? 点数? なぜわたしたちは洞窟にいるのだろう。何を探しているのだろう。何が目的なのだろう。なぜ洞窟の中に海賊がいるのだろう。わたしたちはそんな事は聞かなかった。思いつきもしなかった。探検こそが要であって、どうやって次の部屋に進むか、どうやって正しい順番でアイテムを置くか、わたしたちはそればかり考えていた。
結局のところ、ゲームはクリアできなかった。六、七歳の子供には(何年もやってたので、しまいには八、九歳になったが)たぶん難しすぎたのだろう。九歳の時、わたしは両親と一緒に別の土地に引っ越した。すぐにわたしは、近所の子供たちを放課後の探検ゲームに招いた。でも、もはや何もかもが違っていた。あのゲームの文章は、そのままわたしの幼年期の中に残り、全てはそこから育っていって、または偽造されていった。
餞別の寄せ書きTシャツ(デコレーションペンで書いてあるやつ。1991年だったからね!)と一緒に、シャーロットはお別れのカードを渡してくれた。そこには、閂のかかった扉への、細長く危険な道筋が描かれていた。当人にとってはギャグのつもりだっただろう(ココカラ デテイク ダッテ? イイダロウ、トビラ ハ アソコダ!)。しかし、ほんの数ヶ月前、記念品箱の中からそのカードを掘り出した時、わたしは彼女から、もう一つの探すべき鍵を、解くべき謎を、越えるべき障害を、差し出されたのだと思わずにはいられなかった。
子供の頃のわたしは、ウィル・クロウザーについても、Colossal Caveというタイトル(Adventureよりもこっちの方が有名なのだが)についても、何ひとつ知らなかった。わたしの最初のアドベンチャーゲームが、世界で初めて作られたアドベンチャーゲームである事を、わたしは後からウィキペディアに教わった。人々はそのゲームを「おじいちゃん」と呼んでいた。まるでわたしが、明朝の陶磁器や地図の書き方について、年老いた家長から教わったとでも言うかのように。神秘的で、同時に過酷で、自らの子を危険に一人晒す事で生きていく術を学ばせた、昔方の長老から。
わたしはまた、一体このゲームは何なのか、疑問を持つ事を知らなかった。このゲームの目的は? アイテムの順番の意味は? 曲がった星冠の杖がテレポート効果を持っている理由は? あの陰鬱な声の歌う哀歌の正体は一体? それはただ単にわたしが幼かったからではなく、ゲームデザインについて何も知らなかったからだった。「おじいちゃん」が自分にやってほしい事を探り当てるために、見えないゲームデザイナーの意図を汲みとるにはどうすればいいのか、わたしは全く知らなかった。
今のわたしは、それらを全て知っている。わたしの遊んだゲームがどのバージョンかも知っているし、あのピザくらいの大きさのあったディスクが、今わたしが書き込んでいるこのファイル自体と同じくらいの容量しか持たない事を知っている。Collosal Caveはゲーム草創期の遺物で、生焼けの作りかけである事を知っているし、他の人の文章から、そのゲームには宝物と点数を集める他に目的らしい目的はなく、今日わたしが見つける事のできる百万のがっかりゲームデザインと同じくらいの骨格しか持たないという事すら知っている。
子供の頃、何年もの時間を費したそのゲームが、実際は30分もあればクリアできる事を知っているし、デザイナーとプレイヤーのキャッチボールが明らかに上手になっている今、ひょっとしたらそれよりも早くクリアできるかもしれないという事を知っている。
わたしがこれらの事を知っているのは、わたしの仕事がゲームについて書く事であり、その内部構造を理解し、応え、その出来を図解する事だからだ。それはまた、Colossal Cave Adventureが、あの「批評筋の評価」みたいなものを気にする事なく(そんなもの、未だかつて存在しないのだが)疎かに紡がれた文章が、わたしの心を捉えて離さなかった事は、単なる偶然にすぎないという事を、わたしが知っている理由でもある。
それらは同時に、わたしが決してその洞窟に戻らない理由でもある。わたしにとっては、その洞窟は単なるテキストファイルではなく、緑色の光に満ちた地下室への想い出であり、最愛の書物であり、わたしに百ものお話を作らせた体験、葉脈のレース模様を注意深く観察させ、森に捨てられた子供用のバケツや、ぬかるみに無造作に置かれた一枚の厚板から魔法を生み出させた体験だった。わたしにとっては、あの頃裏庭から続いていた小径は、そのままウィル・クロウザーの作ったあの迷宮に、「ベッドキルト」や「霧の空洞」、「平たい床の部屋」といった名前の部屋を持つ、あの禁じられた洞窟に繋がっていた。
わたしはFacebookからシャーロットを探し出した。それからこの記事のために、わたしは彼女に連絡を取り、彼女があのゲームの事を憶えているか、そのゲームが彼女に何か変化を及ぼしたか(わたしたちは子供の頃以来会った事がない)聞いてみようとした。しかし、記憶を取り戻すために関連資料を当たっていく中で、わたしはこの文章にたどりついた。そこにはウィル・クロウザーが、このゲームを娘たちのために、妻と一緒に楽しんだ洞窟探検と同じ体験を味わわせるために作ったという事が書いてあった。彼はすでに離婚し、娘たちとは離れ離れになっていたのに。
かなりこたえた。Colossal Cave Adventureは、もはや存在しないものへのラブレターだったのだ。小さなわたしと、小さなシャーロット。あれからわたしは、方向感覚を失なったまま大人になり、すっかり地図は読めなくなった。わたしが今住んでいるのは、混沌が列を作ったような、緑などどこにもないような場所で、あの「うつろな声」はもう何も教えてくれず、わたしはくるくる回っている。北を探し求めるコンパスのように、または父を探し求める娘のように。
でもわたしには、まだコンピューターゲームが(そして世界が)愛されるために、これといった目的も解決策も必要としていなかった時代の記憶がある。ほんの数行のそっけない文章にも、その可能性を拓いていく能力があるという知識がある。
シャーロットには連絡をとらなかった。想い出をそのまま残しておきたかったからだ。そうすれば、わたしたち二人はいつまでも、ウィル・クロウザーの娘であり続けるだろうから。
Colossal Cave Adventures にはさまざまのバージョンがあり、ここであそぶ事ができる。