chromeっちが東京に来ているとのことで、久々に会うついでに時かけ見ましょうかとなって、シネセゾン渋谷で「時をかける少女」を見た。なんか東京でしかやってるイメージがなかったので、chromeっちも未見かなと踏んでいたのだけど試写会でとっくに見ているそうで、わざわざ付き合ってくれるというんは有り難いことである。テアトル新宿は連日立ち見だそうだが、こちらは場所柄もあるせいか席も半分くらいしか埋まらず、なかなか快適に見ることができた。となりの男一人女二人の学生らしき三人組が何の話かしらんがずっとスパッツスパッツ言ってて、予告編の間ずっとスパッツのことしか考えられなかった。スパッツはいいものである。
「夏だ! 自転車だ! 三角関係だ!」という感じで、タイムリープというデカめのSF装置にもかかわらず、「時をかける少女」が、ちょっとこっ恥かしくなるくらいド真ん中の青春ものとしてまとまっていられるのは、まずは主人公である紺野真琴の徹底的な頑固さと、それに連なる形で映画全体を強く支配している「戻る」ことへのエネルギーという、二つの力が働いているおかげだろう。
紺野真琴は、高二にしてはありえないくらい不満や悩みを持っていない。成績が悪かったり、ドジだったり、不器用であったりという短所に対して、自覚はしているが無頓着であるし、(理系か文系かという程度の)進路に関する漠然とした不安はあるものの、それが前景化するまでには至っていない。彼女の日常は、間宮や津田とキャッチボールをしたりカラオケに行ったりする限りに閉じられており、その中では何の問題も浮かぶことなく、だから彼女は自分の現状に対してこの上なく満足している。これをある種の軽さ=内面のなさと受け取ることもできるだろうが、しかし物語が進むにつれて、彼女は現状に受動的に満足しているというより、この安定した現状に非常に執着しているということがわかる。彼女は、過去に戻るという能力を、まずはひたすら現状を引き伸ばすことに使う(三人でカラオケで歌う一時間を、何度も何度も繰り返す)。下校の途中間宮に告白されてしまうと、下校を何度も繰り返すことで、それを無化しようと努める。一見内面のなさそうなこの少女は、実はめちゃめちゃ頑固な自己の持ち主であるわけだ。
このことは、「時をかける少女」で、タイムリープという能力が、かならず「戻る」方向に作用する(間宮の能力は未来に向いているように見えるが、それは未来に「戻って」しまうという意味では、「戻る」能力の一つのバリエーションになる)ことと、けして無縁ではないだろう。「戻る」ということは、それが一度は過ぎ去ったということであり、だから紺野は、「戻った」先で何が起きてるかを常に「知っている」。だから、「時をかける少女」は、紺野が全速力で駆け「進む」ことで、時間軸では過去に「戻る」という捻れた設定になっている。変化を嫌う彼女は、彼女の「知っている」日常が「知らない」未来へ変わっていこうとする時、全速力で自分が「知っている」過去まで戻り、「知っている」を「知っている」のままに保とうとする。この映画が観客のノスタルジーツボを事あるごとに刺激し続けるのは、それが単に青春ものであるからというより、「過去=知っている、安心できる、美しい」という、紺野の視点の現われとして理解されるべきかもしれない。
(事実、「時をかける少女」の語り口は、紺野真琴の視点から一切ブレることがない。世界の時間が夏休み前の2、3日を中心にヨーヨー運動を繰り返すのに対し、彼女の時間はストーリに沿って常に過去→現在へと流れていて、この視点に立っているゆえに、この物語は時間のパラドックスとおよそ無縁でいられるし、観客は行ったり来たりする時間に混乱することなくストーリーを楽しむことができる。ただ、この視点の安定感は、その視点が自己中心的であることと裏表でもあって、たとえば津田が死んで泣き喚く紺野を、紺野自身の時間軸から簡単に消し去ってしまう)
紺野の試みはしかし、映画が進むにつれ、ことごとく失敗する。というより、紺野がソフトランディングを目指せば目指すほど、事態は残酷な方向へ残酷な方向へ向かっていくと言ってもよい。これは紺野がドジだとかそういうこと問題ではなくて、ものごとが続かないのはどうしようもないというまあ世の中の真実というか青春ものの永遠のテーマのようなものにかかわってくる問題だろう。やがて紺野は能力を使い果たし、津田とその恋人を死なせ、間宮にその死を巻き戻させることで、彼の能力をも使い果たさせ、彼を失ってしまう。気がついてみれば、よかれと思ってやったことは全て裏目に出て、狭く、頑固で、だからこそ美しく、安定していた彼女の世界(=映画の世界)は、その性質を保ちつづける限り崩壊するしかなかったのである。紺野は二人の親友、つまり彼女にとっての世界そのものを、間接的に殺してしまっていたのだ。
だからこそ、よく考えられたひと捻りによって、彼女にもう一度だけ能力が授かれた時、彼女が家を飛びだし、下り坂を猛烈に疾走するシーンは、この映画のなかで一番気持いい。彼女の頑固さが、「戻る」ことへの引力が、ここでようやくふっ切れることを感じるからだ。そして、その一番気持いい疾走の後に、未来を取り消すためではなく、未来を進めさせるために、紺野真琴は更に一度走り出すことになる。今度ばかりは彼女の運動は、よくわかっている過去へではなく、よくわかっていない未来へ向かっている。だから、その走るシーンでは、紺野は跳躍しない。世界を安定させていた、「戻る」ことへのエネルギーは、もうここでは働かない。「うおりゃー」とさわやかに駆けあがったりもせず、ただひたすら息を切らし、つらそうに走る。今までのシーンの中で、一番気持よくないけど、だからこそ、この走るシーンは、一番感動的で、この映画のクライマックスに相応しいシーンであると思う。
間宮を未来へ見送りながら、「(未来へ)走って行くから」と泣きじゃくる紺野を見れば、オープニングの「時をかける少女」とエンディングでの「時をかける少女」が、すっかり違う含みを持っていることを感じとることができるだろう。泣いている女の子の髪をくしゃくしゃというスーパー胸キュン場面もあり、これ以上なくさわやかな気分になって、気がつけば津田が男一人女四人のモテモテ王国の国王になっているのもまあ許せるというものだ。
(二〇〇六年七月)